ごきげんいかが?NAOです。
ジブリの映画『魔女の宅急便』って、いくつになって観てもいいな~。
一人前の魔女になるべく、13歳のキキが修行の旅に出る成長物語。この作品を観るといつも、じんわり心に勇気が灯るようです。
幼少期から大好きな作品で、何度となく観ているけれど、考えてみれば原作を読んだことってなかった。
そう気づいたのは、原作者の角野栄子さんが「アンデルセン賞」を受賞されて新聞に取り上げられた記事を読んだときでした。そこでさっそく、『魔女の宅急便』とともに『角野栄子「魔女の宅急便」展』を読んでみることに。
「誰でも魔法をひとつは持っている」。
『角野栄子「魔女の宅急便」展』によると、『魔女の宅急便』は、角野栄子さんがこういう思いを込めて書き続けた作品なのだそうです。
◆ Contents ◆
『魔女の宅急便』/角野栄子
映画とはちょっぴり違う原作も素敵
原作『魔女の宅急便』は、全6巻で紡がれる物語。
1巻では、キキが魔女になることを決意し、修行に出てから独り立ちするまでの1年が描かれています。
原作全6巻では、少女だったキキはやがて結婚し、2人の子供の母親となり、その子どもたちが自立していく様子も描かれています。けれども、ジブリ映画では1巻の内容が中心なんだなと。
ファンタジーでありながら、仕事や恋愛、生き方に悩みつつ、ときに自信を無くしながらも前に進んでいくキキの姿は、原作も映画も同じ。「生きることの本質」のようなエッセンスが詰まっていて、大人になってからも共感できるから、こんなにも幅広い世代で愛され続けているんですね。
ちなみに映画では、旅立ちの夜、キキとジジは嵐に遭遇して貨物列車に逃げ込むシーンが描かれていますが、原作にありませんでした。
『角野栄子「魔女の宅急便」展』にありましたが、角野さんがジブリ側に要求したことはただ一つだったそうです。それは、「キキが故郷を旅立つとき、庭の樹に取り付けた鈴を鳴らしていくこと」。
原作を離れて映画という新しいコンテンツが生み出されるとき、その作り手の意図を尊重して委ねる角野さんの姿勢も、しなやかで素敵だなと思いました。
ちょっぴり生意気でクスッと笑える、粋なキキの会話
ストーリーが素敵なのはもちろんのこと、私は早く大人になりたいと背伸びするちょっぴり反抗期のキキの会話が大好きです。文字で読むと、より心に残るから不思議。
特に、修行に旅経つ前の家族との会話が大好き!生意気なもの言いをするときは、「ちょっとクスッと笑えるフレーズと雰囲気をものにしたい!」と本気で思いました。
心のほうはまかしといて。お見せできなくてざんねんです
魔女を志す少女は、13歳になる年、満月の夜を選んで独り立ちをします。
キキは、伝統ある魔女の道を志しますが、おしゃれも気になる多感な年頃の女の子。
「…昔から魔女の洋服の色は全て黒の中の黒って決まっているの。これは変えられないのよ 」
と娘をたしなめる母のコキリさんの言葉に、反抗心と残念な気持ちでキキはふてくされます。
そして、「キキ、そんなに形ばかりにこだわらないの。心がたいせつよ」と諭すキコリさんに対して、キキはサラッとこう返します。
「かあさん、わかってるわよ。心のほうはまかしといて。お見せできなくてざんねんです」
やりたいことはどんどんやってみたいわ
そして、会話は続きます。
もう少しスカートの丈を短くしてというキキに対して、「そのほうがずっとお上品よ。おとなしく見えるほうがいいのよ。そうじゃなくても魔女のことをとやかくいう人が多いんだから。…」コキリさんがキキのためを思って進言します。
このあと、コキリさんと父親のオキノさんの会話が続くのですが、ずっと不満そうなキキ。そして、伸びやかにこう言い放ちます。
「あたしはね、魔法が消えたのは世の中のせいじゃないと思うわ。魔女がね、えんりょしすぎたせいよ。かあさんだって、魔女はおとなしく、ひかえめにって、いつもいってるでしょ。あたしはね、ひとになんていわれるか、いつも気にして生きるのはいやよ。やりたいことはどんどんやってみたいわ」
「ほう、キキもいうじゃないか」と驚くオキノさん。気概と聡明さに溢れた13歳のキキが眩しい!この本のジャンルは児童書ながら、大人になってからも心に響く珠玉の言葉が満載です。
心配はおきたときにすればいいのよ。
出発の日どりを「このつぎの満月の日」とキキは決めるものの、あと5日しかないという余裕のなさ。そこで、すかさずジジがチクリ。
「どうなることやら、心配だね。決めたらすぐの人だから」と嫌味を言います。
けれども、キキは嫌味なんてどこ吹く風。「あら、そう。あたし、心配なんてしてないわ。心配はおきたときにすればいいのよ。今は、贈りもののふたをあけるときみたいにわくわくしてるわ」
自分のことを信じて、「今ここ」をめいっぱい楽しもうとするキキの姿勢に共感するとともに、勇気のおすそ分けをしてもらった気分になるのでした。
子どもも大人も元気にしてくれる「魔法の種」を生み出す作家
『角野栄子「魔女の宅急便」展』(2017年7月)の冒頭では、「ここではない どこかへ」と題して角野さんがメッセージを寄せています。これがまたじんわりと来るのです。自分の中の想像力、「魔法」をちゃんと見つけたい、育てたい、そして然るべく使いたい、そんな風に温かい気持ちになるのでした。以下は一部抜粋。
弱虫の私に「だいじょうぶだよ」と言ってくれる優しい魔法の種
「ここではない、どこかに行きたい」。こんな気持ちが、小さい頃からずっと私の中にありました。本当に小さい頃からです。子どもは無邪気、というのが相場ですが、そんなことはない。程度の差こそあれ、不安も寂しさも抱えているものです。
私も部屋の隅に膝を抱えて座り込み、漠然とした不安を抱きながら、飽きもせずに「ここではないどこか」にいる自分を想像し、「家出物語」のようなものを思い描いていました。ありがたいことに、お話はいつもハッピーエンドで終わりました。なぜそうなるのか、小さな私には分かりませんでした。でも、こんな「物語」のなかに、子どもを元気にする魔法の種が隠れていたように思います。弱虫の私に「だいじょうぶだよ」と言ってくれる優しい種が。やがて不安はいつの間にか薄れ、部屋の隅から身を起こし、日常に戻っていくのです。
アッチ、コッチ、ソッチ、キキ、ジジたちが「書いてみたら」
…「おばけとか魔女とか、いるようでいないものを、よく書くのはなぜですか?」
しばしばこんな質問をいただきます。ほんとだ!なぜかな?子どもの頃は、おばけも魔女も、いるようでいないものではなく、見えないけれど、いつもそばにいてくれたものたちでした。時には寂しさを慰めてくれたり、時にはおどかされたり、怖くはあっても、どこか面白い人たちなのです。目を手で隠しながらも、指の間から見ないではいられない、そんな人たちでした。
もう一度、子どもの時のように、彼らと遊んでみたい―。そんな気持ちでいたら、アッチ、コッチ、ソッチや、キキ、ジジたちが「書いてみたら」って、生まれてきたのです。
それで、「ああかな、こうかな?こうなれば、ああかな?」と心を動かしていると、見えない世界の人たちだけに、思いもかけない動きをして、私をびっくりさせてくれました。もともとこういう人たちは、びっくりさせるのが大好きなのですね。
書いているのは私なのですがーこれは本当!―、彼らは限りない自由を私に許してくれました。そして、一緒に冒険の旅に出かけたのです。そして、未だに私に続きの物語を書くよう誘ってくれています。
角野栄子さんの略歴
1935年(昭和10年)東京深川生まれ。
5歳の時に母を病気で亡くす。ある日突然、大切なものが奪われた。その記憶は幼い心に深い不安や恐れを残した。それを埋めるかのように、「目に見えない世界」「現実とは違う世界」を空想して楽しむことが多かったのだそう。こうした幼少期が、後に物語作家となる角野さんの土壌を培ったと言われています。
子どもも大人も元気にしてくれる「魔法の種」が隠された、角野栄子さんの作品。たっくさんありますが、すべて読破したいと思います。
それでは、ごきげんよろしく!